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愛は 見返りを求めない 無償の愛 そこに 喜びがある 愛という言葉の前に、私は立ち尽くしたことがありました。もう十年も前になりますが、経済的な支援をしていた中国の留学生に、厳しい言葉を突き付けられたからです。 「お世話になって、こんなことを言うのは失礼かも知れませんが、松本さんは、良いことは沢山しているが、そこには愛が感じられないですよ」と。 この言葉は直接的でしたから、心臓を突き刺ささりました。自分の内面に隠しておいたものが暴かれたようなショクでした。それから、長い間、この言葉は私の心のうちに刺さった棘のように抜けませんでした。それは、私の心のどこかで、その言葉を受け入れていなかったからです。 彼の言葉を受け入れられるようになったのは、次の聖書の言葉でした。 「愛は寛容であり、愛は情け深い。愛は高ぶらない、誇らない、無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを望み、すべてを耐える」(コリント第一の手紙 13:4−7) 愛は無償の愛であるからこそ、尊いのだと知りました。私の愛は代償を求めていたのです。自分を誇るものになっていたのです。 愛は本来無償なのです。愛に代償を求めている場合には、代償が得られないと、相手にねたみを覚えのです。ねたみは怒りに変わります。相手に尽くしているつもりが、相手から無視されたりしますと、たちまちにねたみ、怒りが生まれます。愛の本質は無償なのです。代償を求めるときに、愛は愛から遠くなるのです。 愛の行為が無償であるとすれば、人のためにやっているからと言って、自分を誇ることもないでしょう。しかし、恐ろしいことに、愛の行為が自分の高ぶりにつながっているときがあります。困ったことにそれに気付いていないことが多いのです。私が留学生に指摘された点は、この点だと思います。愛が形を変えて自分を誇っていたのです。自分を誇ることは、愛と最も相反するものだと気づきました。 無償の愛は、決して自己犠牲の愛ではないと思います。愛することは、人間の本質と思います。人を愛することができる自分が、実は愛されていることを知ることになります。 母の子に対する愛は、まさに無償の愛です。母の無償の愛によって、子供は育っていくのです。 |
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